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気仙沼の実家を津波で流された親友に、かける言葉が見つからなかった。 彼女が気丈に振る舞えば振る舞うほど、どんな言葉も同情も励ましも、 現実の重みからかけ離れているような気がして。 仙台の実家と、十日以上も連絡がつかなかった友人たち、 今も行方がわからない親戚を案じながら、被災地に向かうブロガーさん、 初めて耳にした時、響きが美しい名前だなあと思った"陸前高田"、 その故郷が壊滅してしまったブロガーさん、 そして、連日、新聞やTVで伝えられる被災地の状況に、 思うことがあっても、感情がこみ上げてきても、なかなか表現できずにいた。 この一ヶ月、何をしていたんだろう。 ほぼ全部の予定がキャンセルになり、時間はあったはず。 自分に出来る支援と備えを細々と、 そして毎日早く帰って、余震に怯えて毛布にくるまっていたことしか思い出せない。 危機管理対策も、広報の仕事の一つ。 会社でも、情報収集とその見極めに追われた。 溢れる情報、二転三転する情報に振り回されて、疲弊する一方で、 最新の情報ネットワークやITに救われたことも確かにあった。 ただ、巷に流れる情報量の多さに反して、自分が発する言葉の数は少なくなり、 ブログも含めて、意識的に、人とのコミュニケーションから遠ざかっていった。 自粛とはちょっと違う。 衝撃、怖さ、不安、無力感…完全に気持ちが後ろ向きになり、 まあ、要するに引き篭もっていたようなものだったと思う。 3月11日、帰宅困難者となった母は、 ロビーを開放してくれた都内のホテルで一夜を過ごし、 翌日昼過ぎに、憔悴しきって、私のマンションに立ち寄った。 玄関のドアを開けて、母を抱きしめた時、ずいぶん華奢で小柄だなあと思った。 前からこんなに小さかったっけ。 それとも、年をとって小さくなったんだろうか。 外国人の友人や同僚とは、ごく自然にハグや頬キスまで交わし合うのに、 家族とはハグする機会がないまま、 私も親も、こんな年になってしまったんだなあと思う。 私は、揺れがどうしようもなく怖い。 独身で子どもがいなくて、この先も産むことがない(たぶん)、ということもあるのだろう、 何年先に影響が出てくるかわからない、目に見えない放射能よりも、 今、実際に体感する地震の揺れの方が怖くてたまらない。 被災地や原発に近い方のご苦労やご不便、ご心痛を思えば、 私の不安なんて微々たるものなのに、 "もう、やだ(泣)" "怖いよぉ" "どうすればいいのー" 本当に情けないことだけれど、余震の度に、自分しかいない部屋で声を上げ、 TV画面やぬいぐるみにまで話しかける。 防災リュックと、靴と、ケイタイを確認しながら、 瞬間的にソーシャルメディアで誰かと繋がり、安心してみたりする。 独りってそういうことなんだと思う。 自分自身の危機管理のあり方と重ねて、考えるようになった。 地震の2週間前だったか、初めて偕楽園を訪れ、茨城が身近になった。 あの日、水戸で夕食に付き合ってくれた、茨城に転勤したばかりの男友達は被災し、 偕楽園は、液状化と地盤沈下で閉園したまま。 お米もお野菜もお肉も、とても美味しかった。 "頑張れ"という言葉は良くない、使うべきではない、とよく言われるけれど、 これだけの国家の危機と未曾有の大災害を前にして、 "一緒に頑張っていこうよ"という気持ちは間違ってはいないと、私は思う。 人の気持ちに寄り添い、共有や共感することができるのは、人だけ。 一緒になら、出来ることも増える。 私は、 阪神大震災で自宅が全壊した、主人の母の思いやトラウマのような恐怖心を、 後々まで、長きに亘って思いやれなかったことを、 今さらながら悔やんでいる。 復興までの道のりが長いように、 かけがえのないものを失った人たちの傷が癒えるまでには、相当の歳月を要する。 支援が息切れし、世の中の関心が薄れていくことほど、残酷なことはない。 忘れずにいること。 国も個人もメディアも、そうありたい。
by apricot0113
| 2011-04-10 01:08
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