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我が家で1月生まれの父と私は、 パパと杏のお誕生会は合同でいいわよね、 と母と姉から一方的に言われ、いつも二人まとめてお祝いされていた。 クリスマスやお正月で一家集合&ごちそうが続くこともあり、 お正月に集まったばかりだから、お誕生会は1月じゃなくて2月にしようか、 ごちそう続きで胃がもたれているから、軽いものにしようか、 と言われたこともあった(笑)。 え、それはおかしくないか? 子どものころは、私だけが主役になりたいときもあったし、 私たちっていつも一緒くたにされてるよね、 大人になってから父と笑って話したこともあった。 でも、もうそんな愚痴も冗談も言えない。 昨年、父が他界した。 もう二度と1月生まれの合同お誕生会はしてもらえない。 生きていたら今年父は八十八歳、私は五十五歳。 二人揃ってぞろ目でなんとなく良いことがありそうなお祝いになるはずだった。 一昨年の1月生まれ合同お誕生会が家族揃った最後の外食になってしまった。 イタリアンの店で父は料理をたいらげ、4人で赤ワインのボトルを空けた。 さすがにバースデーカードは一緒くたではないけれど、 4人別々の場所に住んでいるから当日は結構慌ただしい。 料理が並んだテーブルの上で所狭しと父のカードに母姉私が寄せ書き、 私のカードに父母姉が寄せ書きする。 そのとき父が私に寄せたメッセージが、 父から私への最後の自筆メッセージになった。 その直後からコロナ禍が始まり、父を老人ホームから連れ出せなくなり、 かつてのノーマルな生活がどんどん遠のいてしまった。 コロナ禍における面会は当然制限され、 オンライン面会や手紙で家族はそれぞれの近況を父に伝えた。 窓越しに面会したこともあったけれど、 コロナで一変した外の世界を実感していない父にはもどかしかったと思う。 ナマの顔を見せてくれ、 私たちにマスクを取って顔を見せて欲しいとねだったこともあった。 昨年5月、ホームのお医者様から父があと一ヵ月ぐらいかもと告げられ、 以来、ホームのご配慮により、 家族は24時間父の部屋で面会できることになった。 その時点でまだひとりも感染者を出していないホームなだけに、 これまでの関係者のご尽力を無駄にしてはいけないと、 それはそれは細心の注意を払って父の部屋を訪れた。 モニターや窓越しに会うのとはやはり全然違う。 余命一か月のはずがその後四ヵ月以上も頑張ってくれたのだから、 父にとっても家族との対面が生き続ける力になったと信じたい。 最後に会話したのは7月下旬だった。 その日は私一人で面会に訪れ、 父の部屋でオリンピック中継を見ながら一緒に過ごした。 父はアタマと意識はしっかりしており、 コロナがなかなか収束しないこと、 オリンピックが無観客になり私が購入したチケットも払い戻しになったこと、 在宅勤務していること、 等々、外の現実を伝えると驚いていた。 政府はダメだ、後手後手だな、 それは、その日一番語気が強くて父らしい言葉だった。 怒る元気、批判する元気があるならまだまだ大丈夫! 私は安心して明るい気持ちでホームを後にすることができた。 父との最後のやりとりが明るい記憶でよかったなと思う。 その後、父は昏睡状態に陥り、それでも一か月半以上持ちこたえた。 よく、意識がなくても耳は聞こえているというから、 パパ、ありがとうね、 私たちは大丈夫、安心してね、 私たちのこと忘れないでね、いつまでも家族だからね。 一生懸命、声をかけた。 時々パッと目を開けてじーっと私たちを見つめる父は、 何を言いたかったのだろう。 最期は家族で静かに見送ることができた。 コロナ禍にもかかわらず、最後の数ヵ月穏やかな時間を一緒に過ごせたこと、 心からお疲れさまでしたという気持ちで見送れたことは本当にありがたく、 医療・介護従事者の皆様には感謝しかない。 老人ホームでアイリッシュウイスキーをボトルキープしていた父。 誤嚥性肺炎を繰り返すようになってからは飲酒できなくなり、 ボトルの2/3ぐらいウイスキーが残っていたのだが、 葬儀ではバカラのグラスと並べて祭壇にボトルをお供えし、 供花の百合の葉をウイスキーに浸して、それで父の唇を湿らせてあげた。 あのとき一緒に聴いた「英雄」第二楽章葬送を流してお見送りをした。 あの世でも音楽とお酒と旅行を存分に楽しめますように。 Daddy, I miss you. R.I.P. #
by apricot0113
| 2022-01-30 23:39
| 今
都内に呼び寄せた両親はそれぞれ新しい生活に馴染み、 訪ねた先に父と母が一緒にいないことにも慣れてきた。 かつて親との電話は圧倒的に母が多くて、 家族団欒中でも女性陣のおしゃべりに気圧されて、 父はさっさと二階に上がってしまうことが多かったのだけれど、 老人ホームに移ってから父と一対一の対話がうんと増えた。 携帯電話の短縮ダイヤルで私とすぐに繋がれるようになり、 週末の午後、父の部屋を訪ねると、 昔から絶対昼寝をしない父はいつも椅子に座って迎えてくれて、 元気でやってるか、仕事はどうだ、 私の近況を尋ねる。 特に昨年はメンタルやられそうなくらい、 ストレスフルでピリピリする日々だったのだけれど、 父と過ごす時間だけは穏やかにゆっくり言葉を交わすことができた。 決してその時間帯を狙って行ってるわけではないが、 父はホームから供されるその日のおやつをいつも私に食べろと勧める。 小さなどら焼きとかプリンとか遠慮なく頬張る私は、 傍から見れば年老いた親からおやつを横取りしている娘だ。 でもかつて父とのデートも同じ構図だったなと思ってうれしくなる。 鰻とかお寿司とかよく仕事帰りに美味しい店で待ち合わせて、 あの頃も父は、好きなものを頼め、もっと食べなさいと勧め上手だった。
父の部屋で三十分から一時間ぐらい過ごして、 帰り際は必ず握手、交わす言葉はいつも同じ。 杏、身体に気をつけなさい、 パパも気をつけてね、また来るからね、 “また”がいつまでも続いて欲しいと心の中で願いながら、部屋を後にする。
それは一年ぐらい前のある週末の午後だった。
パパが生きているうちに、杏には自分の家を買って欲しい。
父の言葉に私は衝撃を受け、自分が動揺していることを気づかれないように、
大丈夫、ちゃんと考えてるから心配しないで。
と答えるのがやっとだった。 父が建てた自慢の家、私が生まれ育った家は二年前に売却し、 あっという間に解体され、跡地には三軒の"いまどきの"分譲住宅が建っている。
娘に残す家、娘が戻れる家はもうないー。 賃貸マンション暮らしの娘の老後を案じる父の胸中を思うと、 そしてどれだけ心配かけているかを思うと夜も眠れなくて、 父の言葉はそれはそれは我が身にこたえた。 これまで親から家の話を持ち出される度に、 持ち家に興味がなく実家に戻るつもりもない私は、 いつも“そのうちに“で曖昧に言葉を濁し、かわしてきたのだけれど、 “そのうちに”は”父が生きているうちに”という、 一見、具体的なようで誰にもわかり得ない期限に読み替えられ、 それが腰の重かった私を動かす原動力になった。 そして家探しを始めて数ヵ月、縁あって良い物件と出会い、 この春、緊急事態宣言が出る直前にバタバタと新居へ引っ越した。 新居はこのうえなく快適で、購入して良かったとしか今は言いようがない。 引越直後から在宅勤務生活が始まり、思いがけず家にいる時間が長くなって、 毎日毎日、住み心地の良さを実感している。 日に日に、自分の家への愛着が深まる。 終の住処を得たからなのか、私自身どこかほっとしたのかもしれない。 父の言葉で行動を起こせたことに心から感謝し、 だからこそ父を新居に招いて安心してもらいたいのに、 感染症対策により面会・外出禁止になってもう半年が経つ。 オンライン面会や電話で話すことはできても、 父が私の手を握る力で父の元気度を推し量ることはできない。
先月、父が救急搬送された。 医療現場が逼迫しているなか受け入れて下さった病院には感謝しかないが、 コロナで病院も面会禁止、あらゆる場面でコロナが及ぼす影響に直面する。 退院するときに言われた、 でもこの症状はまた繰り返すと思いますよ。 担当医のその言葉通り今週もまた症状が悪化し、 今回は老人ホームで応急処置はできたものの、 今週末、今後のことについて母がホーム付きの医師と面談することになった。 外部者出入り制限のため面談も家族一人まで、私は同席できない。 このまま弱って快復できなかったら、 私の新居に来てもらえなかったらどうしよう、 情けないけれど、そのことで私は頭がいっぱいになっている。 電話で父にかける言葉や病院やホーム気付で送る葉書にも、
絶対元気になって私の新居を見に来てね、 家からパパの母校がよく見えるんだよ、きっと懐かしくなるよ、 地元でいいお寿司屋さんを見つけたから、お寿司の出前も頼もう、 今の父の状態からはとても現実的だとは思えないプランを並べ立てている。 父を励ますというより、実現できると自分に思い込ませようとするかのように。 なぜずっと親の言葉を聞き流してきたのか、 なぜもっと早く行動を起こさなかったのか、 きっと私は自分が後悔するのが何より怖くてたまらないのだろう。 先が見えないこの閉塞感と焦燥感と不安に押しつぶされて泣きたくなるとき、 今も継続している在宅勤務に救われている。 神様、どうかこのマイホームで私の家族写真を撮らせて下さい。
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by apricot0113
| 2020-08-13 00:12
| 今
休息を求めて訪れた南の島は、東京より涼しかった。 父が介護付有料老人ホームに入居し、 母は父の老人ホーム近くのマンションに転居、 そして私が生まれ育った実家を売却した。 本来ならば、数年かけて段階を経て実行してもいいような大プロジェクトを、 最高気温の記録が毎日塗り替えられる猛暑の中、 なんと三週間で三つの契約締結と二つの引越を実行した。 実質、動けるのは母と姉と私。 私が作ったプロジェクト工程表をもとに、三人でタスクをこなした。 姉と私は仕事もある。 忙し過ぎてイライラし、家族にきつい言葉を浴びせたこともあった。 その度にどうしようもなく自己嫌悪に陥り、泣きたくなった。 ここ数年、母がかなり断捨離を進めていたにもかかわらず、 一軒家の片付けは想像を絶するほど大変なものだった。 今思えば熱中症だったのだろう、 作業中、猛烈な頭痛と吐き気に襲われたこともあった。 母が取っておいてくれた下手くそな絵や工作などの思い出グッズ、 日記や表彰状やアルバムを眺めて感傷的になる一方で、 果てしなく続くモノの選別や処分に気が遠くなる。 父の老人ホームに持ち込むもの、 母の新居に持っていくもの、 娘たちが引き取るもの、 知人に譲るもの、 骨董屋、リサイクルショップ、着物・古切手買取業者、 ブックオフ、産業廃棄物… 暑さも重なり、意識が朦朧としてくると判断力も狂ってくるのか、 投げやりになった途端に迷いがなくなる。 結婚していた頃の膨大な量の写真は潔く全て処分した(笑)。 なんせ昔のアルバムは重くて嵩張る。 あの頃デジタル時代だったら、保管も楽、消去もクリック一つで済んだのに。 自分も親もあと5年若かったら、ずいぶん違っていただろう。 片付けに加えて諸々の契約や段取り等々、 様々な場面において姉と私の立ち会いや署名を求められ、 体力的にも精神的にも、疲労困憊する日々だった。 実家との行き来もあと数えるほどしかないというのに、 帰り道はいつも逃げるように自宅に戻っていた。 本当に本当に過酷な夏だった。 この話が浮上したのは4月半ばを過ぎた頃だったと思う。 俺はこの家で最期を迎えたかったんだっ。 当初は、そう息巻いていた父だったけれど、 父もうすうすわかっていたのだと思う。 ゴールデンウィークが終わる頃には、 これがベストな選択肢なんだよな。 自分に言い聞かせるように、心を決めた。 そして44年前に建てた自慢の家の売却話を進め、 老人ホームに持っていくものを選別し始めた。 訪問入浴、訪問リハビリ、ヘルパーさん、ショートステイと、 これまで本当にたくさんの人たちに恵まれ、助けられ、 言葉で尽くせないほどお世話になった。 それでも広い一軒家で、 まだ自立とはいえ目も足腰も弱ってきた母が、 要介護2の父を介助しながら暮らしていくことはもう限界に近かったと思う。 責任感が強くて完璧主義の母が、 二年前に大病した父に何かあったらいけないと心配して手出し口出しすることに、 歩行以外は医者が驚くほど劇的な回復ぶりを遂げた父が反発し、 一生懸命やっていることを認めて欲しい母と、 素直にありがとうを言えない父が、 刺々しい言葉で互いを傷つけ合うようになった。 それぞれが仕事中の娘たちに電話をかけて愚痴をこぼしたり、 ストレスによる過呼吸で母が何度も倒れたり、 家族四人で過ごせる時間は永遠に続くわけではないのに、 顔を合わせると疲れることの方が多くなっていた。 夫婦共白髪はおめでたいことなのに、こんなに悲しくてしんどいことなのか? それなら私は独りのままでいい。 口に出さないけれど、正直そう思うこともあった。 家族一同、決断から行動までが早い方だが、 今年のお正月が実家で家族揃って迎える最後のお正月になるとは、 さすがに思ってもみなかった。 都内賃貸マンション住まいの私に、 杏は、この家に戻ってきて住む気はないか? そう尋ねてくる父の気持ちを思うと胸が痛んだが、 自分も50代に入り、仕事の責任も職務も増えた今、 通勤時間が短い今の環境を変えることは考えられなかった。 この先15年は働くことを考えると、通勤環境を優先したい。 逆にパパとママに私たちの近くに来てもらえたら。 十年前とは違う、私も変わった。 親だけでなく、自分も老後に向けてまっしぐらなのだから。 そうして、都内の娘たちが住む区限定で老人ホーム探しを始め、 幸い姉の自宅近くに父の老人ホームと母が住む家が見つかった。 家族全員都心に集結することで親を訪ねやすく駆け付けやすくなり、 父が安全・安心な環境に移って母のストレスや負担が軽減されることは、 安心できることでもある。 そう思って前向きに受けとめよう。 体験入居を経て父が納得して受け入れた施設との出会い、 母の新居になる物件との出会い、 予想外にとんとん拍子に進んだ実家の売買契約と、 それらのタイミングがぴたりと合ったことも、 我が家の決断を後押ししてくれたんだと思いたい。 父の老人ホームと母の住まいは、徒歩15分ほどの距離。 訪ねた先に二人が一緒にいないこと、その状況に私がまだ慣れていないが、 二人とも見るからに表情が柔らかくなった。 父も母も気持ちにゆとりが必要だったんだなあと思う。 お気に入りのオーディオセットを自分の部屋に持ち込んだ父は、 一緒に音楽を聴くお友達も出来たらしい。 母も近所のお店をいろいろ開拓しては、嬉しそうに報告してくる。 娘たちが独立した後も、 両親が丁寧にメンテナンスしながら大切に住んできた実家。 写真を撮り納めしながら、いい家で育ててもらったなあと感謝しかない。 物理的に実家がなくなったことの寂しさは、 これからじわじわと出てくるのだろう。 実家の住所と電話番号は、今もアドレス帳から消せずにいる。 #
by apricot0113
| 2018-08-20 02:30
| 今
父のショートステイの日に合わせて、母を近場の温泉旅行に連れ出した。 父が重篤な状態に陥り、 家族が片時もスマホを手離せず緊張の日々が続いた一年前を思うと、 あの不安で胸が押しつぶされそうになっていた状況からは、 脱したんだなあと感慨深い。 父は胃瘻をつけていたとは思えないほど、毎日晩酌し、何でも食べる。 家では歩行器、外では車椅子が必要だが、 夜中のトイレも母を起こさず、ひとりで行けるようになった。 諦めていた家の二階にも上がろうという気持ちが芽生え、 中二階の部屋までは上がれるようになった。 先日の検査では、驚異的に数値が改善されている!と先生に驚かれ、 介護認定では要介護度が一段階軽くなり、判定が良くなっていた。 お医者さん、看護師さん、理学療法士の先生、ケアマネさん、ヘルパーさん、 近所の人、友人、昔の勤務先の仲間たちまで、 皆さん本当に良くして下さって、父は周りの人たちに恵まれていると思うし、 もちろん父自身も頑張ってきたのだけれど、 何よりここまで回復したのは、母の支えがあってこそ。 娘たちに対しては惜しみなく言える"ありがとう"を、 母にはどうして言えないのか、 ちゃんとママにも"ありがとう"と言葉で伝えてあげて、 姉と私で時々父にお小言を言う。 そんな母は、先月二回も救急搬送された。 キッチンでぶっ倒れ、手と頭が痺れて口も聞けず、父が私に電話してきた。 ママが台所で倒れている。 私が駆けつけても四、五十分はかかるから、とにかく119番させた。 母なら父の病歴、服用薬等、何でも把握していて的確に説明できるけれど、 家内は元気です、 倒れている母の傍らで、父はそう救急隊員に言ったらしい。 でも、母が常備している緊急時医療情報キットのおかげで、 隊員は母の既往症や薬をすぐ把握し、かかりつけの病院に搬送してくれた。 要介護の父の状態もすぐに理解し、 緊急連絡先欄に記載されていた娘たちにてきぱきと連絡して下さった。 二回とも診断はストレスによる過呼吸。 母と父の主治医は同じ先生で、母のストレス要因もよくご存じである。 隔週だけれど、父のショートステイは二泊から三泊になった。 母との二人旅は久しぶり。 熱い温泉にゆっくり浸かりヘッドスパまでやってもらって、母はご機嫌だった。 シェフのお任せコースに舌鼓を打ちながら、この一年の母の頑張りを労う。 風呂上がりのお酒で気持ちも軽くなったのだろう。母はいつもより饒舌だった。 実は春先からある症状が気になっててね、でも病院に行く勇気がなくて。 インターネットである漢方薬が効くという情報を見つけて、電話してみたの。 保険は効かないけれど、電話の対応も良かったからお薬注文したのね。 その後体調どうですかって親切に電話くれるから、追加でまた注文して。 でも全然治った感じがしないから、この間やっと専門病院に行ってきた。 そしたらシリアスな病気ではないって。 手術の選択肢がないわけじゃないけれど、先生は様子を見ましょうって。 入院になったらパパどうしようと思うと夜も眠れなくて、 でもこれでちょっとホッとした(^^;。 母の告白を聞いた私は、思わず声を荒げてしまった。 患者を診ずに薬を送りつけるだけなんてあり得ない! 漢方って、もともと患者ひとりひとりの症状に合わせて煎じるものなんだよ、 ちゃんと病院行かなくちゃダメじゃない、 もう、やだ、怪しい業者に引っかからないでよ、 高齢者詐欺の被害者になっちゃうでしょ、ホントしっかりしてよ。 違う、本当は違う。そうじゃない。 母が自主的に注文しているのだから、騙されたわけじゃない。 業者を悪者にし、母を責め立ててしまったのは、 後悔と自分の不甲斐なさを咄嗟に誤魔化そうとしたからなんだと思う。 少し前、母に頼まれて母のパソコンの設定を直したことがあった。 あれは検索履歴だったのか入力予測候補だったのか、 作業中、何かの拍子にずらーっと表示されたキーワードに愕然とした。 それはまさに(今思えば)母の症状から考えられる病気に関連するものばかり。 心臓がバクバクするのを感じながら閲覧履歴もチェックしてみたら、 これまた関連ページを山ほど参照していることがわかった。 なんで? どうして? どういうこと?? 母のパソコンなのだから、母しかいない。 だからこそあのとき母に確かめるべきだったのに、どうしても聞けなかった。 何かまずいことが起きているのではないか、 そう思っても本当のことを知るのが怖かった。 むしろ、閲覧履歴の削除方法ぐらい覚えておいてよ、と思ったりした。 まず調べまくる。そして自分で何とかしようとする。 母も、一年前の私と同じようなことをしていたんだなあと思う。 母が照れくさそうに話すことに救われつつ、 ママが悩んでいたときに力になれなくてごめん、 臆病な娘でごめん。 でも結局そのことは打ち明けられないまま、心の中で謝った。 あのときの自分の心境を表すとしたら、苦い、それに尽きる。 心の奥底にある澱のようなものと化学反応でも起こすのだろうか、 せっかくの風呂上がりのビールも苦くなって、半分以上残してしまった。 母はいつまでも元気、に全く根拠はないのに、 そうであって欲しい、それを心のどこかで前提にして甘えていることを、 本当に申し訳ないと思う。 それでもなお、娘の私より長生きして欲しいとさえ思ってしまうのだけれど。 甘えられる人、頼る人がいなくなったどうしよう、 不安になると現実から目を逸らしてしまう自分が、情けなくてたまらない。 #
by apricot0113
| 2017-10-08 09:30
| 今
今年の夏休みは、久々に国内で過ごした。 13歳以下お断り、全室20室以下の大人の隠れ家で、 よく寝て、食べて、本読んで、蒼い海をぼーっと眺める。 日がな一日その繰り返し。 至れり尽くせり、何でも揃っているけれど、 適度に客を放っておいてくれるのが、実に心地良い。 だって日常とは違う空間と時間の流れを満喫したいのだから。 私と同世代とおぼしき、 おひとりさまの男性や女性も見かけて勝手に連帯感を覚える。 どうもお疲れさまです。 お互いうんと充電して、休み明けからまた頑張りましょうね。(心の声) スタッフによれば、滞在中ずっと部屋にこもって過ごす客も多いらしい。 わかる、わかる。外に出るのもったいないもんね。 こういう場所は本当に大事にしたいし、もっともっと増えてほしい。 夜は最上階の専用貸切露天風呂から、 これでもかっていうぐらいの満天の星を見て圧倒された。 プラネタリウムよりも星が多い。多過ぎて夏の大三角形がわからない。 そして生まれて初めて見る天の川に大感激した。 これか、これが天の川なのか!! そのスケールのデカさに気持ちまで大きくなる。 両手をぱーっと上げて、両脚をがーっと開いて、 星空を仰ぐように浴槽の中に立った。 今、私が見ている星の光は数万年前に放たれたんだよね、 ってことは、私の一糸纏わぬ姿は数万年後にあの星から見えるのか? フフフ、どう思われるんだろう、楽しみ。 宇宙のロマンとは程遠いが、想像力の乏しい私にしては上出来である。 夜風が爽やかだから長風呂しても全然のぼせない。 もう一時間近く、宇宙に向けて大サービスしてしまった。 今年は珍しく、社内で誰よりも早く夏休みを取ったものだから、 実はこれはもう二ヵ月近くも前の話である。 その後一気にストレス社会に引き戻され、 眉間には皺が、首・肩・腰はカチカチで先週鍼を打つ羽目に。 昔から難しい課題と責任を与えられると俄然やる気が出る子、 相変わらず仕事と会社は大好きなんだけれど、 なにしろ疲れが取れなくなってきた。土日はまるで廃人である。 私はあと何年、こういう生活を送るんだろう。 帰り際、見送ってくれた隠れ家のスタッフの言葉をふと思い出す。 思い立ったら、いつでもバッグひとつでいらしていただけますから。 この言葉を心の拠りどころにしながら生きている、今日この頃である。 #
by apricot0113
| 2017-08-27 18:44
| 想い出
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