21年前の今日、私は夫の赴任先の北京に移ったばかりで、
関西で地震があったらしい、ということを、
外国人向けマンションでは視聴できるNHKニュースによって知った。
携帯もスマホもない固定電話の時代、
でも北京と芦屋にある夫の実家は国際電話がすぐ繋がった。
大好きな夫の母の声を聞いて無事は確認できるも、
大丈夫だから、大丈夫だから心配しないでと繰り返すばかり、
声もよく聞き取れなかった。
政府も被害状況の全体像をまだつかめておらず、
情報が錯綜して報道機関も混乱していたのだろう、
朝のニュースの時点では、
関西人にとっては珍しく大きな地震が起きたんじゃないの?
ぐらいに、関東人の自分は軽く捉えていた。
その日は、駐在員妻たちによる私の歓迎昼食会が予定されており、
これからどっぷり浸かることになる駐妻社会へのデビューを前に、
正直そっちに気を取られていたと思う。
上下関係、組織、ルール、秩序大好き人間にとって、
hierarchyのはっきりしている社会はむしろ生き易い。
緊張や不安よりも、
これからこの駐妻社会で自分がどんな役割を果たせるか、
駐在員妻として会社に、中国にどう貢献できるかに興味があった。
こういう場では第一印象が肝心だから、
もちろん着るもの、バッグ、アクセサリーにも気を遣い、
準備に余念がなかった。
本場中国料理の昼食会をつつがなく終えて帰宅し、
それでもデビュー戦だったからやはり気疲れしたのだろう、
心地よい疲労感と満足感、満腹感に包まれ、
ソファーに寝転がってテレビをつけてみたら、
朝のニュースから死者の数は桁違いに増えていた。
街のあちこちから炎が上がっており、
高速道路は折れ、多くの家屋が潰れていた。
そして芦屋の家も全壊し、母が助かったのは奇跡的だったこと、
避難先に身を寄せ、脱水症状気味であることを知らされた。
朝の電話で、母はどうしてあんなに気丈にふるまったのだろう。
そして私はどうしてあっさり電話を切ってしまったのだろう。
私たちは直ちに帰国して、母を避難先から東京に呼び寄せる算段をした。
全壊した芦屋の家がようやく建て直されて半年後、母は病気で亡くなった。
遺族の高齢化、ボランティアの減少等の理由により、
今年はずいぶん追悼行事の数が減ったという。
あれから21年もの歳月が流れたという現実、まさにそのものだと思う。
一方、あの日の朝の自分の浅はかで恥ずかしい記憶が風化することはなく、
でも、忘れていないことにどこかほっとする。
消したいような苦い記憶なのに、
みんなMemorial Dayにしてしまえばいい。