杏ダイアリー
2022-01-30T23:51:15+09:00
apricot0113
自分自身にまつわる出来事と感情の記録
Excite Blog
別れ
http://anzudiary.exblog.jp/30968192/
2022-01-30T23:39:00+09:00
2022-01-30T23:51:15+09:00
2022-01-30T22:50:43+09:00
apricot0113
今
パパと杏のお誕生会は合同でいいわよね、
と母と姉から一方的に言われ、いつも二人まとめてお祝いされていた。
クリスマスやお正月で一家集合&ごちそうが続くこともあり、
お正月に集まったばかりだから、お誕生会は1月じゃなくて2月にしようか、
ごちそう続きで胃がもたれているから、軽いものにしようか、
と言われたこともあった(笑)。
え、それはおかしくないか?
子どものころは、私だけが主役になりたいときもあったし、
私たちっていつも一緒くたにされてるよね、
大人になってから父と笑って話したこともあった。
でも、もうそんな愚痴も冗談も言えない。
昨年、父が他界した。
もう二度と1月生まれの合同お誕生会はしてもらえない。
生きていたら今年父は八十八歳、私は五十五歳。
二人揃ってぞろ目でなんとなく良いことがありそうなお祝いになるはずだった。
一昨年の1月生まれ合同お誕生会が家族揃った最後の外食になってしまった。
イタリアンの店で父は料理をたいらげ、4人で赤ワインのボトルを空けた。
さすがにバースデーカードは一緒くたではないけれど、
4人別々の場所に住んでいるから当日は結構慌ただしい。
料理が並んだテーブルの上で所狭しと父のカードに母姉私が寄せ書き、
私のカードに父母姉が寄せ書きする。
そのとき父が私に寄せたメッセージが、
父から私への最後の自筆メッセージになった。
その直後からコロナ禍が始まり、父を老人ホームから連れ出せなくなり、
かつてのノーマルな生活がどんどん遠のいてしまった。
コロナ禍における面会は当然制限され、
オンライン面会や手紙で家族はそれぞれの近況を父に伝えた。
窓越しに面会したこともあったけれど、
コロナで一変した外の世界を実感していない父にはもどかしかったと思う。
ナマの顔を見せてくれ、
私たちにマスクを取って顔を見せて欲しいとねだったこともあった。
昨年5月、ホームのお医者様から父があと一ヵ月ぐらいかもと告げられ、
以来、ホームのご配慮により、
家族は24時間父の部屋で面会できることになった。
その時点でまだひとりも感染者を出していないホームなだけに、
これまでの関係者のご尽力を無駄にしてはいけないと、
それはそれは細心の注意を払って父の部屋を訪れた。
モニターや窓越しに会うのとはやはり全然違う。
余命一か月のはずがその後四ヵ月以上も頑張ってくれたのだから、
父にとっても家族との対面が生き続ける力になったと信じたい。
最後に会話したのは7月下旬だった。
その日は私一人で面会に訪れ、
父の部屋でオリンピック中継を見ながら一緒に過ごした。
父はアタマと意識はしっかりしており、
コロナがなかなか収束しないこと、
オリンピックが無観客になり私が購入したチケットも払い戻しになったこと、
在宅勤務していること、
等々、外の現実を伝えると驚いていた。
政府はダメだ、後手後手だな、
それは、その日一番語気が強くて父らしい言葉だった。
怒る元気、批判する元気があるならまだまだ大丈夫!
私は安心して明るい気持ちでホームを後にすることができた。
父との最後のやりとりが明るい記憶でよかったなと思う。
その後、父は昏睡状態に陥り、それでも一か月半以上持ちこたえた。
よく、意識がなくても耳は聞こえているというから、
パパ、ありがとうね、
私たちは大丈夫、安心してね、
私たちのこと忘れないでね、いつまでも家族だからね。
一生懸命、声をかけた。
時々パッと目を開けてじーっと私たちを見つめる父は、
何を言いたかったのだろう。
最期は家族で静かに見送ることができた。
コロナ禍にもかかわらず、最後の数ヵ月穏やかな時間を一緒に過ごせたこと、
心からお疲れさまでしたという気持ちで見送れたことは本当にありがたく、
医療・介護従事者の皆様には感謝しかない。
老人ホームでアイリッシュウイスキーをボトルキープしていた父。
誤嚥性肺炎を繰り返すようになってからは飲酒できなくなり、
ボトルの2/3ぐらいウイスキーが残っていたのだが、
葬儀ではバカラのグラスと並べて祭壇にボトルをお供えし、
供花の百合の葉をウイスキーに浸して、それで父の唇を湿らせてあげた。
お出かけ時に愛用していたBorsalino のひとつを柩に納め、
あのとき一緒に聴いた「英雄」第二楽章葬送を流してお見送りをした。
あの世でも音楽とお酒と旅行を存分に楽しめますように。
Daddy, I miss you. R.I.P.
父とのデート1父とのデート2父とのデート3父とのデート4親心父とのデート5喜寿
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マイホーム
http://anzudiary.exblog.jp/30177832/
2020-08-13T00:12:00+09:00
2021-03-27T22:25:48+09:00
2020-08-12T22:01:05+09:00
apricot0113
今
都内に呼び寄せた両親はそれぞれ新しい生活に馴染み、訪ねた先に父と母が一緒にいないことにも慣れてきた。かつて親との電話は圧倒的に母が多くて、家族団欒中でも女性陣のおしゃべりに気圧されて、父はさっさと二階に上がってしまうことが多かったのだけれど、
老人ホームに移ってから父と一対一の対話がうんと増えた。携帯電話の短縮ダイヤルで私とすぐに繋がれるようになり、週末の午後、父の部屋を訪ねると、昔から絶対昼寝をしない父はいつも椅子に座って迎えてくれて、元気でやってるか、仕事はどうだ、私の近況を尋ねる。特に昨年はメンタルやられそうなくらい、ストレスフルでピリピリする日々だったのだけれど、父と過ごす時間だけは穏やかにゆっくり言葉を交わすことができた。決してその時間帯を狙って行ってるわけではないが、父はホームから供されるその日のおやつをいつも私に食べろと勧める。小さなどら焼きとかプリンとか遠慮なく頬張る私は、傍から見れば年老いた親からおやつを横取りしている娘だ。でもかつて父とのデートも同じ構図だったなと思ってうれしくなる。
鰻とかお寿司とかよく仕事帰りに美味しい店で待ち合わせて、あの頃も父は、好きなものを頼め、もっと食べなさいと勧め上手だった。
父の部屋で三十分から一時間ぐらい過ごして、帰り際は必ず握手、交わす言葉はいつも同じ。 杏、身体に気をつけなさい、 パパも気をつけてね、また来るからね、“また”がいつまでも続いて欲しいと心の中で願いながら、部屋を後にする。
それは一年ぐらい前のある週末の午後だった。
パパが生きているうちに、杏には自分の家を買って欲しい。
父の言葉に私は衝撃を受け、自分が動揺していることを気づかれないように、 大丈夫、ちゃんと考えてるから心配しないで。
と答えるのがやっとだった。
父が建てた自慢の家、私が生まれ育った家は二年前に売却し、あっという間に解体され、跡地には三軒の"いまどきの"分譲住宅が建っている。 娘に残す家、娘が戻れる家はもうないー。
賃貸マンション暮らしの娘の老後を案じる父の胸中を思うと、そしてどれだけ心配かけているかを思うと夜も眠れなくて、父の言葉はそれはそれは我が身にこたえた。
これまで親から家の話を持ち出される度に、持ち家に興味がなく実家に戻るつもりもない私は、いつも“そのうちに“で曖昧に言葉を濁し、かわしてきたのだけれど、“そのうちに”は”父が生きているうちに”という、一見、具体的なようで誰にもわかり得ない期限に読み替えられ、
それが腰の重かった私を動かす原動力になった。そして家探しを始めて数ヵ月、縁あって良い物件と出会い、この春、緊急事態宣言が出る直前にバタバタと新居へ引っ越した。
新居はこのうえなく快適で、購入して良かったとしか今は言いようがない。引越直後から在宅勤務生活が始まり、思いがけず家にいる時間が長くなって、毎日毎日、住み心地の良さを実感している。日に日に、自分の家への愛着が深まる。終の住処を得たからなのか、私自身どこかほっとしたのかもしれない。父の言葉で行動を起こせたことに心から感謝し、
だからこそ父を新居に招いて安心してもらいたいのに、
感染症対策により面会・外出禁止になってもう半年が経つ。
オンライン面会や電話で話すことはできても、父が私の手を握る力で父の元気度を推し量ることはできない。
先月、父が救急搬送された。医療現場が逼迫しているなか受け入れて下さった病院には感謝しかないが、コロナで病院も面会禁止、あらゆる場面でコロナが及ぼす影響に直面する。
退院するときに言われた、 でもこの症状はまた繰り返すと思いますよ。担当医のその言葉通り今週もまた症状が悪化し、今回は老人ホームで応急処置はできたものの、今週末、今後のことについて母がホーム付きの医師と面談することになった。外部者出入り制限のため面談も家族一人まで、私は同席できない。
このまま弱って快復できなかったら、 私の新居に来てもらえなかったらどうしよう、
情けないけれど、そのことで私は頭がいっぱいになっている。電話で父にかける言葉や病院やホーム気付で送る葉書にも、 絶対元気になって私の新居を見に来てね、 家からパパの母校がよく見えるんだよ、きっと懐かしくなるよ、 地元でいいお寿司屋さんを見つけたから、お寿司の出前も頼もう、
今の父の状態からはとても現実的だとは思えないプランを並べ立てている。父を励ますというより、実現できると自分に思い込ませようとするかのように。 なぜずっと親の言葉を聞き流してきたのか、
なぜもっと早く行動を起こさなかったのか、きっと私は自分が後悔するのが何より怖くてたまらないのだろう。
先が見えないこの閉塞感と焦燥感と不安に押しつぶされて泣きたくなるとき、今も継続している在宅勤務に救われている。神様、どうかこのマイホームで私の家族写真を撮らせて下さい。
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共白髪
http://anzudiary.exblog.jp/28596302/
2018-08-20T02:30:00+09:00
2020-08-12T20:22:44+09:00
2018-08-20T01:48:34+09:00
apricot0113
今
2018年夏、我が家もアツかった。
父が介護付有料老人ホームに入居し、
母は父の老人ホーム近くのマンションに転居、
そして私が生まれ育った実家を売却した。
本来ならば、数年かけて段階を経て実行してもいいような大プロジェクトを、
最高気温の記録が毎日塗り替えられる猛暑の中、
なんと三週間で三つの契約締結と二つの引越を実行した。
実質、動けるのは母と姉と私。
私が作ったプロジェクト工程表をもとに、三人でタスクをこなした。
姉と私は仕事もある。
忙し過ぎてイライラし、家族にきつい言葉を浴びせたこともあった。
その度にどうしようもなく自己嫌悪に陥り、泣きたくなった。
ここ数年、母がかなり断捨離を進めていたにもかかわらず、
一軒家の片付けは想像を絶するほど大変なものだった。
今思えば熱中症だったのだろう、
作業中、猛烈な頭痛と吐き気に襲われたこともあった。
母が取っておいてくれた下手くそな絵や工作などの思い出グッズ、
日記や表彰状やアルバムを眺めて感傷的になる一方で、
果てしなく続くモノの選別や処分に気が遠くなる。
父の老人ホームに持ち込むもの、
母の新居に持っていくもの、
娘たちが引き取るもの、
知人に譲るもの、
骨董屋、リサイクルショップ、着物・古切手買取業者、
ブックオフ、産業廃棄物…
暑さも重なり、意識が朦朧としてくると判断力も狂ってくるのか、
投げやりになった途端に迷いがなくなる。
結婚していた頃の膨大な量の写真は潔く全て処分した(笑)。
なんせ昔のアルバムは重くて嵩張る。
あの頃デジタル時代だったら、保管も楽、消去もクリック一つで済んだのに。
自分も親もあと5年若かったら、ずいぶん違っていただろう。
片付けに加えて諸々の契約や段取り等々、
様々な場面において姉と私の立ち会いや署名を求められ、
体力的にも精神的にも、疲労困憊する日々だった。
実家との行き来もあと数えるほどしかないというのに、
帰り道はいつも逃げるように自宅に戻っていた。
本当に本当に過酷な夏だった。
この話が浮上したのは4月半ばを過ぎた頃だったと思う。
俺はこの家で最期を迎えたかったんだっ。
当初は、そう息巻いていた父だったけれど、
父もうすうすわかっていたのだと思う。
ゴールデンウィークが終わる頃には、
これがベストな選択肢なんだよな。
自分に言い聞かせるように、心を決めた。
そして44年前に建てた自慢の家の売却話を進め、
老人ホームに持っていくものを選別し始めた。
訪問入浴、訪問リハビリ、ヘルパーさん、ショートステイと、
これまで本当にたくさんの人たちに恵まれ、助けられ、
言葉で尽くせないほどお世話になった。
それでも広い一軒家で、
まだ自立とはいえ目も足腰も弱ってきた母が、
要介護2の父を介助しながら暮らしていくことはもう限界に近かったと思う。
責任感が強くて完璧主義の母が、
二年前に大病した父に何かあったらいけないと心配して手出し口出しすることに、
歩行以外は医者が驚くほど劇的な回復ぶりを遂げた父が反発し、
一生懸命やっていることを認めて欲しい母と、
素直にありがとうを言えない父が、
刺々しい言葉で互いを傷つけ合うようになった。
それぞれが仕事中の娘たちに電話をかけて愚痴をこぼしたり、
ストレスによる過呼吸で母が何度も倒れたり、
家族四人で過ごせる時間は永遠に続くわけではないのに、
顔を合わせると疲れることの方が多くなっていた。
夫婦共白髪はおめでたいことなのに、こんなに悲しくてしんどいことなのか?
それなら私は独りのままでいい。
口に出さないけれど、正直そう思うこともあった。
家族一同、決断から行動までが早い方だが、
今年のお正月が実家で家族揃って迎える最後のお正月になるとは、
さすがに思ってもみなかった。
都内賃貸マンション住まいの私に、
杏は、この家に戻ってきて住む気はないか?
そう尋ねてくる父の気持ちを思うと胸が痛んだが、
自分も50代に入り、仕事の責任も職務も増えた今、
通勤時間が短い今の環境を変えることは考えられなかった。
この先15年は働くことを考えると、通勤環境を優先したい。
逆にパパとママに私たちの近くに来てもらえたら。
十年前とは違う、私も変わった。
親だけでなく、自分も老後に向けてまっしぐらなのだから。
そうして、都内の娘たちが住む区限定で老人ホーム探しを始め、
幸い姉の自宅近くに父の老人ホームと母が住む家が見つかった。
家族全員都心に集結することで親を訪ねやすく駆け付けやすくなり、
父が安全・安心な環境に移って母のストレスや負担が軽減されることは、
安心できることでもある。
そう思って前向きに受けとめよう。
体験入居を経て父が納得して受け入れた施設との出会い、
母の新居になる物件との出会い、
予想外にとんとん拍子に進んだ実家の売買契約と、
それらのタイミングがぴたりと合ったことも、
我が家の決断を後押ししてくれたんだと思いたい。
父の老人ホームと母の住まいは、徒歩15分ほどの距離。
訪ねた先に二人が一緒にいないこと、その状況に私がまだ慣れていないが、
二人とも見るからに表情が柔らかくなった。
父も母も気持ちにゆとりが必要だったんだなあと思う。
お気に入りのオーディオセットを自分の部屋に持ち込んだ父は、
一緒に音楽を聴くお友達も出来たらしい。
母も近所のお店をいろいろ開拓しては、嬉しそうに報告してくる。
娘たちが独立した後も、
両親が丁寧にメンテナンスしながら大切に住んできた実家。
写真を撮り納めしながら、いい家で育ててもらったなあと感謝しかない。
物理的に実家がなくなったことの寂しさは、
これからじわじわと出てくるのだろう。
実家の住所と電話番号は、今もアドレス帳から消せずにいる。
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母娘
http://anzudiary.exblog.jp/27268174/
2017-10-08T09:30:00+09:00
2017-10-08T13:32:03+09:00
2017-10-08T06:56:35+09:00
apricot0113
今
父が重篤な状態に陥り、
家族が片時もスマホを手離せず緊張の日々が続いた一年前を思うと、
あの不安で胸が押しつぶされそうになっていた状況からは、
脱したんだなあと感慨深い。
父は胃瘻をつけていたとは思えないほど、毎日晩酌し、何でも食べる。
家では歩行器、外では車椅子が必要だが、
夜中のトイレも母を起こさず、ひとりで行けるようになった。
諦めていた家の二階にも上がろうという気持ちが芽生え、
中二階の部屋までは上がれるようになった。
先日の検査では、驚異的に数値が改善されている!と先生に驚かれ、
介護認定では要介護度が一段階軽くなり、判定が良くなっていた。
お医者さん、看護師さん、理学療法士の先生、ケアマネさん、ヘルパーさん、
近所の人、友人、昔の勤務先の仲間たちまで、
皆さん本当に良くして下さって、父は周りの人たちに恵まれていると思うし、
もちろん父自身も頑張ってきたのだけれど、
何よりここまで回復したのは、母の支えがあってこそ。
娘たちに対しては惜しみなく言える"ありがとう"を、
母にはどうして言えないのか、
ちゃんとママにも"ありがとう"と言葉で伝えてあげて、
姉と私で時々父にお小言を言う。
そんな母は、先月二回も救急搬送された。
キッチンでぶっ倒れ、手と頭が痺れて口も聞けず、父が私に電話してきた。
ママが台所で倒れている。
私が駆けつけても四、五十分はかかるから、とにかく119番させた。
母なら父の病歴、服用薬等、何でも把握していて的確に説明できるけれど、
家内は元気です、
倒れている母の傍らで、父はそう救急隊員に言ったらしい。
でも、母が常備している緊急時医療情報キットのおかげで、
隊員は母の既往症や薬をすぐ把握し、かかりつけの病院に搬送してくれた。
要介護の父の状態もすぐに理解し、
緊急連絡先欄に記載されていた娘たちにてきぱきと連絡して下さった。
二回とも診断はストレスによる過呼吸。
母と父の主治医は同じ先生で、母のストレス要因もよくご存じである。
隔週だけれど、父のショートステイは二泊から三泊になった。
母との二人旅は久しぶり。
熱い温泉にゆっくり浸かりヘッドスパまでやってもらって、母はご機嫌だった。
シェフのお任せコースに舌鼓を打ちながら、この一年の母の頑張りを労う。
風呂上がりのお酒で気持ちも軽くなったのだろう。母はいつもより饒舌だった。
実は春先からある症状が気になっててね、でも病院に行く勇気がなくて。
インターネットである漢方薬が効くという情報を見つけて、電話してみたの。
保険は効かないけれど、電話の対応も良かったからお薬注文したのね。
その後体調どうですかって親切に電話くれるから、追加でまた注文して。
でも全然治った感じがしないから、この間やっと専門病院に行ってきた。
そしたらシリアスな病気ではないって。
手術の選択肢がないわけじゃないけれど、先生は様子を見ましょうって。
入院になったらパパどうしようと思うと夜も眠れなくて、
でもこれでちょっとホッとした(^^;。
母の告白を聞いた私は、思わず声を荒げてしまった。
患者を診ずに薬を送りつけるだけなんてあり得ない!
漢方って、もともと患者ひとりひとりの症状に合わせて煎じるものなんだよ、
ちゃんと病院行かなくちゃダメじゃない、
もう、やだ、怪しい業者に引っかからないでよ、
高齢者詐欺の被害者になっちゃうでしょ、ホントしっかりしてよ。
違う、本当は違う。そうじゃない。
母が自主的に注文しているのだから、騙されたわけじゃない。
業者を悪者にし、母を責め立ててしまったのは、
後悔と自分の不甲斐なさを咄嗟に誤魔化そうとしたからなんだと思う。
少し前、母に頼まれて母のパソコンの設定を直したことがあった。
あれは検索履歴だったのか入力予測候補だったのか、
作業中、何かの拍子にずらーっと表示されたキーワードに愕然とした。
それはまさに(今思えば)母の症状から考えられる病気に関連するものばかり。
心臓がバクバクするのを感じながら閲覧履歴もチェックしてみたら、
これまた関連ページを山ほど参照していることがわかった。
なんで? どうして? どういうこと??
母のパソコンなのだから、母しかいない。
だからこそあのとき母に確かめるべきだったのに、どうしても聞けなかった。
何かまずいことが起きているのではないか、
そう思っても本当のことを知るのが怖かった。
むしろ、閲覧履歴の削除方法ぐらい覚えておいてよ、と思ったりした。
まず調べまくる。そして自分で何とかしようとする。
母も、一年前の私と同じようなことをしていたんだなあと思う。
母が照れくさそうに話すことに救われつつ、
ママが悩んでいたときに力になれなくてごめん、
臆病な娘でごめん。
でも結局そのことは打ち明けられないまま、心の中で謝った。
あのときの自分の心境を表すとしたら、苦い、それに尽きる。
心の奥底にある澱のようなものと化学反応でも起こすのだろうか、
せっかくの風呂上がりのビールも苦くなって、半分以上残してしまった。
母はいつまでも元気、に全く根拠はないのに、
そうであって欲しい、それを心のどこかで前提にして甘えていることを、
本当に申し訳ないと思う。
それでもなお、娘の私より長生きして欲しいとさえ思ってしまうのだけれど。
甘えられる人、頼る人がいなくなったどうしよう、
不安になると現実から目を逸らしてしまう自分が、情けなくてたまらない。
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天の川
http://anzudiary.exblog.jp/27075477/
2017-08-27T18:44:00+09:00
2017-08-27T19:14:00+09:00
2017-08-27T18:43:59+09:00
apricot0113
想い出
今年の夏休みは、久々に国内で過ごした。
13歳以下お断り、全室20室以下の大人の隠れ家で、
よく寝て、食べて、本読んで、蒼い海をぼーっと眺める。
日がな一日その繰り返し。
至れり尽くせり、何でも揃っているけれど、
適度に客を放っておいてくれるのが、実に心地良い。
だって日常とは違う空間と時間の流れを満喫したいのだから。
私と同世代とおぼしき、
おひとりさまの男性や女性も見かけて勝手に連帯感を覚える。
どうもお疲れさまです。
お互いうんと充電して、休み明けからまた頑張りましょうね。(心の声)
スタッフによれば、滞在中ずっと部屋にこもって過ごす客も多いらしい。
わかる、わかる。外に出るのもったいないもんね。
こういう場所は本当に大事にしたいし、もっともっと増えてほしい。
夜は最上階の専用貸切露天風呂から、
これでもかっていうぐらいの満天の星を見て圧倒された。
プラネタリウムよりも星が多い。多過ぎて夏の大三角形がわからない。
そして生まれて初めて見る天の川に大感激した。
これか、これが天の川なのか!!
そのスケールのデカさに気持ちまで大きくなる。
両手をぱーっと上げて、両脚をがーっと開いて、
星空を仰ぐように浴槽の中に立った。
今、私が見ている星の光は数万年前に放たれたんだよね、
ってことは、私の一糸纏わぬ姿は数万年後にあの星から見えるのか?
フフフ、どう思われるんだろう、楽しみ。
宇宙のロマンとは程遠いが、想像力の乏しい私にしては上出来である。
夜風が爽やかだから長風呂しても全然のぼせない。
もう一時間近く、宇宙に向けて大サービスしてしまった。
今年は珍しく、社内で誰よりも早く夏休みを取ったものだから、
実はこれはもう二ヵ月近くも前の話である。
その後一気にストレス社会に引き戻され、
眉間には皺が、首・肩・腰はカチカチで先週鍼を打つ羽目に。
昔から難しい課題と責任を与えられると俄然やる気が出る子、
相変わらず仕事と会社は大好きなんだけれど、
なにしろ疲れが取れなくなってきた。土日はまるで廃人である。
私はあと何年、こういう生活を送るんだろう。
帰り際、見送ってくれた隠れ家のスタッフの言葉をふと思い出す。
思い立ったら、いつでもバッグひとつでいらしていただけますから。
この言葉を心の拠りどころにしながら生きている、今日この頃である。
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哀悼
http://anzudiary.exblog.jp/26949271/
2017-06-25T16:39:00+09:00
2017-06-25T23:30:28+09:00
2017-06-25T16:32:30+09:00
apricot0113
今
ただただ残念、その一言に尽きる。
毎日読みにいくわけでもなく、読者登録をしていたわけでもない。
いつから読むようになったのかも、よく覚えていない。
昔から闘病という言葉が苦手で、
その類の読み物や番組は一切避けてきた自分が、
ふと思い立ったとき、彼女のブログにアクセスするようになっていた。
彼女が投稿する短い文章には、
時折、物事の本質や真理を突くような言葉が光っていて、
様々な感情や痛みで圧し潰されそうになることだってあっただろうに、
客観性を見失わずに綴られる、端的で率直な言葉が好きだった。
それは自身の芯の強さから来るのかもしれないけれど、ただ強い言葉とは違う。
やさしさと凛々しさがあった。
彼女の言葉に勇気づけられた人が多いとメディアは言うが、
私のように考えさせられた人もたくさんいると思う。
突っ走る人間を立ち止まらせ、気づかせてくれるものがあった。
人に弱味を見せられず強がる人間の腑にも、すとんと落ちるものがあった。
情報が溢れ、ものすごい速度で流れては埋もれ、消えていく時代に、
もう二度と更新されないトップページから過去に遡ることしかできないこと、
逆に画面上ならいくらでもバックナンバーを遡れて、
生きることへの思いや望みが今もこんなに伝わってくること、
それはなんて酷で悲しいことなんだろう。
残念でたまらない。
どうか、安らかにお眠りください。
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Mount Rainier
http://anzudiary.exblog.jp/26834408/
2017-05-05T10:45:00+09:00
2017-06-25T16:42:00+09:00
2017-05-05T01:44:01+09:00
apricot0113
今
ますます自分の会社が好きになった。
ここ半年から一年の間に、マネジメント能力を求められる場面が著しく増えた。
それは単なる業務量の多さによる心労とは違うストレスをもたらし、
一筋縄ではいかぬ課題も次々に突き付けてくる。
前例やマニュアルがなければ自分が取り組むしかない。
任せてくれる会社のおかげでやりがいに満ちているのだが、
自分のポジション上、相談できるのは日本法人の上層部の人間だけ。
相談→決裁の段階に持っていくまでのproposal作りに行き詰まることもあり、
今年の第一四半期は結構しんどかった。
50年生きるってこういうことなのかと思ったりもした。
私は管理される方が好きなのに。楽なのに。
愛社心から思い入れが過ぎないよう、独りで抱え過ぎて潰れないよう、
そこは過去の経験も踏まえて気をつけていたのだけれど、
やっぱり少し疲れていたのだろう。
成田を発つときは、出張なのに、何とも言えない解放感があった。
全米はもとより世界各国からシアトルに集まった同僚たちは、
各オフィスで私と同じようなポジションに就いている。
予め登録しておいたあるテーマに基づくRound table discussionで、
思いきって問題提起というか相談をしてみたところ、
矢継ぎ早に返ってきた経験則に基づくアドバイスに圧倒され、
そして力強い励ましに感激した。
各国の事情もあり、それら全てを日本で採り入れられるとは限らないが、
共有して共感されることでこんなに気持ちが楽になるのか―。
そして帰国したら米国本社が既にアクションを起こしており、
直ちに日本法人の上層部とも活発な意見交換の場が設けられ、
課題は解決に向けて一気に進展し始めた。
その展開の早さに心底驚く。
私が苦手な"共有と相談"、今回はタイミングを逸しなかったのかもしれない。
地理的な距離を超えての連帯感と連携がありがたく、
この会社で働けることに改めて喜びを感じている。
私もいつか、アドバイスできる側になれたらいいなと思う。
シアトルは雨続きで、部屋の空調を暖房に切り替えるほど肌寒かったけれど、
カンファレンスが終わった直後、
数時間だけ晴れたのが自分の心境と重なってうれしい。
満開の八重桜と青空のコントラストが美しかった。
着陸時に見えなくてがっかりした大好きなMount Rainierも、
この日はうっすら望むことができた。
ありがたいことに、今回は一日余分に滞在することができた。
フリータイム\(^o^)/♪
買い物欲はゼロ、ひたすら街並と人のウォッチングがしたくて歩き始めたら、
雨の中、延々と続くデモに遭遇した。
気候変動や科学関連予算の大幅削減方針を打ち出したトランプ政権に対して、
科学や環境保護や軽視していると抗議する科学者たちが呼びかけたデモで、
この日、全米各地で行われたらしい。
滞在中、ディナーに招いて下さった本社役員のお宅には、
星条旗と一緒に黒い旗が掲げられており、
黒いのはトランプがホワイトハウスを出ていくまで掲げておくとのこと。
私の知っている反トランプ派アメリカ人の中には、
彼を大統領と呼ばないと言い切る人も多い。
広いアメリカ、ところ変われば大衆の声はまた大きく異なることだろう。
でも、世界を揺るがした民主主義大国アメリカの大統領選挙がもたらしたもの、
その現実を垣間見ることができて貴重な体験になった。
出張の締めは、CEOおススメの老舗のオイスターバーで生牡蠣と白ワイン。
実はこの前に魚市場でSASHIMI SCALLOPも、立ち食いしているんだけどね!!
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残り時間
http://anzudiary.exblog.jp/26712725/
2017-03-11T23:45:00+09:00
2017-03-12T10:49:33+09:00
2017-03-12T03:41:32+09:00
apricot0113
これから
でも旧パスポートに記された出入国の記録を見ながら、この10年間の自分の軌跡を振り返ってみると、 案外いい40代だったな、 年を重ねるのは悪くないものだ、それもまた確かな気持ちであることを実感する。
安定した生活を捨てて自分の足で歩くことを選んだ30代、正義感と責任感に燃え、会社を愛するがゆえのストレスとも闘い、死ぬほど悩んで転職を決意した40代、うまくいってもいかなくても自分の責任、リスクも伴うけれど、守ってくれる、頼る人がいなくなってから、私は自分の決断や選択に覚悟が持てるようになったと思う。そうして積み重ねてきた経験に何一つ無駄なものはなかったと、心から思えるようにもなった。
50代もそうありたいと願うけれども、親の病気や介護、我が身の健康問題に直面した今、これからはそういかないことも出てくるのだろう。 自分の思いや都合だけでは決断、行動できないこと、 思いがけず軌道修正や予定変更を迫られること、この先、そんな場面に度々遭遇するんだろうなあと思う。
先日、深夜午前2時半に電話が鳴った。スマホの着信には気づかず、固定電話のけたたましい音で飛び起きた。父がショートステイ先の介護施設から病院に救急搬送され、病院に駆け付けた母は医者に、家族を呼ぶよう言われた。その前の週には、仕事中の私に介護施設から連絡があり、寝込んでいた母に代わって、早退した私が病院への搬送と検査に付き添った。いつまた呼び出されるかわからない。当面の見通しが立たず、自分のアポは立て続けにキャンセルした。
あの3月11日からもう6年なのか、まだ6年なのか、時々わからなくなる。6年前の今日、余震に怯えながら会社の会議室で待機していたのが、遠い昔の出来事のように思えるし、震災後に揃えた備蓄飲料や食料はとっくに消費期限切れ、買い直すのを面倒臭がったまま、あっという間に6年が過ぎた。一方で仮設住宅や復興が進まない地域の様子を見ると、困惑してしまう。6年前で時間が止まったままの人たちは、どうやってこの歳月と向き合ってきたのだろう。
3月11日付け岩手日報に掲載された詩が胸を打つ。Twitter 岩手日報IWATTE@IWATTEより
※詩は出版社のサイトにも掲載されています。
「最後だとわかっていたなら」
残された者が、その思いから解放されることはあるのだろうか。
この思いは、時が経てば経つほど深まっていくのではないか。
何年経ったか、その数字自体に意味はあるのだろうか。
私がこのブログを始めたのは37歳のとき、
まだ37?もう37? それが人生の折り返し地点だったのかどうかわからないまま、50歳になった。さすがにもう折り返しているだろうし、そうであって欲しいけれど、
今は自分の人生の折り返し地点よりも、大切な家族の"最後"と残り時間の方が身近で切実な問題に感じられる。
あと何回、父や母と一緒にご飯を食べられるんだろう、 あと何年、この家で暮らせるんだろう、 いつまで家族四人でいられるんだろう、
週末、父の介護のため(というより母を休ませるため)、姉と交代で実家に泊まりこむ。帰り際、親にかける言葉と握手には前にも増して力が入るようになった。言葉とぬくもりがしっかり記憶に刻まれ、伝わるように。
"最後"なんてわかりたくない、どうかいつまでも"最後"が訪れませんようにと祈りながらも、この一年間で明らかに残り時間を意識するようになったことを自覚している。後悔したくない、ただただその一心で。
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五か条
http://anzudiary.exblog.jp/26445872/
2016-12-11T00:32:00+09:00
2016-12-11T00:49:50+09:00
2016-12-11T00:31:57+09:00
apricot0113
今
夏の暑い盛りに入院した父は、凍えるように冷え込んだ日に退院。
重篤な状況で大手術した腸は手厚い治療や看護のおかげで快復するも、
長期間の入院を経てほとんど歩けなくなっており、
高齢者在宅介護が一気に現実の問題になってきました。
病気や介護が自分ゴトになってみるまで知らなかったことばかり、
医療はもちろん、健康保険や介護保険制度に救われています。
保険料納めているんだから当然とか、そういうことではなくてね。
お医者さん、
看護師さん、
ソーシャルワーカーさん、
ケアマネさん、
ヘルパーさん、
理学療法士さん、等々、
相談に乗って対処してくれる彼らがいなかったら、途方に暮れていたでしょう。
レンタル介護用品の充実したラインナップにも驚かされます。
退院早々、先生の言い付けを守らず、
自分の体力や機能を過信して独りで動こうとした父は転倒、
頑固な父は倒れても自分で立てると言い張り、
でも結局立ち上れなくて、一晩中その状態でリビングの床に寝る羽目に、
起こそうとした母は、悪化していた膝に加えて腰も痛めてしまいました。
週末、姉や私も交代で泊まり込んだりしていますが、
病気で瘦せ細ったとはいえ、大人の男性を一人で介助するのは大変なこと。
家族だけで乗り切ろうとすれば、いつか共倒れになります。
そうなる前に父にも現実を認識してもらう必要があり、
父の入院中、私も手術を受けて入院していたことを伝えました。
このタイミングで打ち明けるのは、脅すみたいで躊躇いもあったのだけれど。
そして母のパソコンを借りて五か条をA4の紙に出力し、
実家のリビングに掲げました。
何でもひとりで出来ると過信しない。 転倒して立ち上がれなくなったら、その状態で人が来るのを待つ。また起こすときは二人がかりで。 パパのリハビリと同様、ママの膝の病気、杏の病気の治癒も最優先し、安心して治療や検査・通院に集中できるよう努める。 家族共倒れにならないよう、誰もが無理をしないことを心がけ、第三者の助けも借りながらサービスを活用する。 何もかも完璧にやろうとしない。直面している問題にプライオリティをつけて対処していく。
これは父だけでなく、家族全員に向けたルールなんですけどね。
この五か条の効果かどうかわかりませんが、
父が今週から二泊三日のショートステイに応じてくれるようになったのは、
大きな一歩でした。
私の入院は当初の予定より少し長引きましたが、
おかげさまで仕事にも復帰しています。
入院中、早く会社に行きたくてたまらなかったので、
年度末の繁忙期を迎えて忙殺されることに幸せを感じていますが、
病理診断の結果、全面的に無罪放免、にはまだなっていません。
五か条ルールのNo. 3とNo. 5は、自戒の意味も含まれています。
父は母と違って感情的にはならず、黙って私の手術の話を聞いていましたが、
やはりショックだったのでしょう、しばらく言葉を失っていました。そして、
何も心配しないで、杏は自分の治療に専念しなさい―。
心配して、心配かけて、家族ってそういうものなんだろうけれど、
これから益々心配ごとが増えていきそうで、時々どーんと落ち込みます。
家族揃ってお正月を迎えられることに感謝し、喜べるよう、
どうか少しずつ明るい兆しが見えてきますように。
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80's
http://anzudiary.exblog.jp/26346764/
2016-11-06T16:36:00+09:00
2016-11-06T22:39:36+09:00
2016-11-06T16:35:48+09:00
apricot0113
想い出
麻酔医:いえいえ、ロックでもラップでも自分の好きな音楽でいいんですよ。
というわけで、手術室に持ち込むCDを最終候補4つまで絞り込むも、
ここから先が決められない。
CDで音楽を聴かなくなって久しい。
数年前に大量のCDを処分して、
今、手元に残っているのは,思い入れのある80年代洋楽ばかり。
あの頃は、時代も輝いていたし、私も輝いていた(笑)。
ずーっとそれが続くと思っていた。
ノリノリ過ぎて麻酔が効かなくなっては困るけど、
術前の不安感を吹き飛ばせるような音楽がいい。
やっぱりコレかな、手術室でLet's Groove。
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大丈夫
http://anzudiary.exblog.jp/26278591/
2016-10-15T20:09:00+09:00
2016-10-15T23:18:23+09:00
2016-10-15T19:12:23+09:00
apricot0113
今
父の病気でそれどころじゃない、が理由だけれども、
心の片隅で自身の問題を先延ばしにする口実にしていたことも、
自分ではちゃんとわかっていた。
生まれて初めての入院から、
家族の同意や立ち会いを求められている手術から、
これまでの経過と現状を親に説明することから、
できれば逃れたい。
手術が無期延期になれば、これらとも向き合わなくていいんじゃないか?
昔から、親になかなか相談できない性質だった。
大事なことであればあるほど、自分で悩み、考え、
ひとりで結論を出してから、最後に報告するだけ。
子どもの頃は、しっかり者として、それが褒められる要素だったのに、
大人になったら、相談下手、甘え下手、という評価に変わってしまった。
人生において何かの岐路に立ったとき、
選択、結論、決断に至るまでのプロセスを誰とも共有しようとしないのは、
余計な心配をかけたくないというのもあるけれど、
周囲の言葉によって自分に迷いが生じるのが嫌だから。
励ましや心配や助言に対して素直になれず強がる自分が想像できるから。
そのくせ、病気や手術名で検索してはヒットしたページを読み漁っている。
医療機関や医療関係者が提供する情報から患者さんのブログまで、
bookmarkした数は70件近く。
Google先生は私に気を遣ったりしないから、容赦しない。
専門用語や数値や可能性をガンガン教えてくれる。
それでいい。
おそらく私は、情報は欲しい、
けれど心情的に寄り添われることに警戒してしまうのだろう。
だから家族、友達、彼、同僚…相手が近ければ近い存在であるほど、
私は大丈夫だから。
と言い放ち、相手が近づく前に遠ざけてしまう。
経過観察が始まってちょうど一年。
溜まった診療明細書や検査/治療に関する説明記録書を整理しながら、
あ、これ、インターネットに書いてあった通りだ、
あのチャートの通りの流れになっているんだな、
とヘンなところで感心し、点と点が繋がって納得する。
父の退院の見通しは立っていないが、
私の方もこのまま放置するわけにもいかず、
主治医の先生と相談し、再び手術の予定が組まれた。
術前検査は結果のデータ有効期間が切れてしまい全部やり直し。
麻酔医、入院病棟の看護師さんとの面談もやり直し。
逃げているからこういうことになる。
毎日父の病院に通い、父の容体の変化に一喜一憂、
特に憂いているときの母の沈みっぷりを見ていると、
目下の課題は、母にどう話すか、それに尽きる。
おそらく母もインターネットで調べまくるだろう。
いかにネガティブ思考に陥らせず動揺させないようにするか、
母を上回る、理論武装ならぬ情報武装で臨まないといけない。
父には知らせず、姉の協力を仰ぎながら、母に淡々と説明しよう。
10年ぐらい前だったか、
姉がややシリアスな診断を下されて手術を受けることになったとき、
俺が代われるものなら代わってやりたい—。
厳しくて冷静な父がこぼしたそのエモーショナルな言葉が、
とても意外で衝撃的だったことを思い出す。
今の父にとてもそんな思いはさせられない。
杏、身体に気をつけろよ、
面会の帰り際、父はいつも私の手を握ってかぼそい声で言う。
高齢で病床にあっても親は親、子どもを気遣う変わらぬ現実に胸が痛み、
私は大丈夫だから。
やっぱり、きっぱりそう答えている。
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手術
http://anzudiary.exblog.jp/26145302/
2016-08-28T15:16:00+09:00
2016-10-10T19:57:05+09:00
2016-08-28T13:52:55+09:00
apricot0113
今
逆の意味で"夢のような"一週間が待ち受けていた。
今、羽田に着いて無事帰国しました、
明日そっちに帰るから、お土産と土産話楽しみにしててね、
空港から実家に電話したとき、
父と母がかわるがわる電話口に出てきてくれ、
双方、元気そうな声にお互い安心したのだが、
その翌朝、猛烈な痛みで病院に搬送された父は緊急手術を受けることになり、
実家に向かっていた私はお土産を持ったまま病院に直行した。
今、お父様は重篤な状態に陥っているとお考え下さい、
この手術は救命のためです、
私たちは命を救うことに全力を注ぎます、
術後の身体や生活に様々な影響があることを覚悟しておいて下さい、
壊死していると思われる臓器の画像と、
紙に描いた上半身部分を図示しながら、
切除する部分とこれから行う手術の内容、
そしてリスクを丁寧に説明して下さる先生の言葉を、
母も姉も私も現実感がないまま、ただ茫然として聞いていたと思う。
重篤って…なに? だって昨日は元気だったよ...?
書類の数とタイトルに圧倒されながらも、
・手術・麻酔・処置・特殊検査に関する同意書、
・造影剤使用に関する説明書および同意書、
・身体抑制に関する同意書、
・内視鏡検査に関する同意書、
・血液製剤使用に関する同意書、
一つずつ声に出して読み上げ、
大丈夫、パパはきっと大丈夫だよね、
女三人、そう確認し合って母が署名したが、
同意書のリスク事項の中の"術中死"という言葉ほど、
私たちを緊張させたものはなく、
これだけは怖くて口に出せなかった。
2時間の予定と聞いていた手術は4時間近くかかった。
地元で大きな総合病院だけれども、
週末のせいか手術の待合室には我々だけ。
まさかここで、
ココナッツサブレを食べて腹ごしらえすることになるとは。
術後、先生に見せられた臓器はどす黒く、とても巨大だった。
切除と縫合自体は成功したが、壊死部分から毒素が身体全体にまわり、
なにぶん高齢ゆえ、2,3日がヤマだという。
そのまま父は集中治療室に移され、人工呼吸器が繋がれた。
病院からの緊急連絡先には、私の携帯番号も登録されている。
その晩、スマホの充電状態と音量を何度も確認し、枕元に置いて寝た。
どうか鳴りませんようにと祈りながら、それはとても長い夜だった。
2,3日のヤマを乗り越え、人工呼吸器が外れて現在は外科病棟に移るも、
父は高熱・肺炎を併発して苦しそうで目ヂカラもない。
早く父の声が聞きたい、今日こそは父の笑顔が見たい、
またぎゅっと手を握り返して欲しい、
そう思って仕事帰りに病院に立ち寄る日々が続く。
脳梗塞のときからお世話になっている病院だから、
外科以外の先生や看護師さんたちも心配して声をかけて下さるのがありがたい。
そして彼らの言葉から、
父の手術が大手術だったということを改めて思い知らされている。
父のことは病院と父の生命力を信じてお任せするとして、
付きっきりの母をむしろ支えていかないといけないわけで、
実は私も手術することになりまして(汗)、
と言えずにいる。
父の入院誓約書の身元引受人には母が、
保証人(患者と別住所であることが条件)には姉や私が署名してきた。
姓が一緒だし病院では同じ印鑑を使い回し。(←ホントはいけない)
これ以上家族の心労は増やしたくないが、私も母と姉に頼むしかない。
頼める身内の数が極めて限られていることを痛感している。
手術当日、付き添いなしでもいいですかね?
看護師さんに尋ねたところ、
全身麻酔は手術中本人に判断能力がないから、家族が同伴して欲しいと言う。
ちゃんと家族を増やしておけばよかった、
今さら思ってもどうしようもないことだけれど、
入院案内パンフレットや書類を前に途方に暮れている。
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coconuts island
http://anzudiary.exblog.jp/26127578/
2016-08-22T02:02:00+09:00
2016-08-22T02:12:51+09:00
2016-08-21T23:00:28+09:00
apricot0113
今
2008年 2012年 に続いて、3度目の訪問となった。
年々、新規開拓や冒険をしなくなってきたなあと思う。
守りに入っているつもりはないけれど、
未知のものに対する興味より、既知のものへの安心感が圧倒的に勝るのだ。
ここ十数年、滞在先を選ぶ基準や休暇に求めるものは変わらない。
日本人が少ない、家族連れが少ない、観光も買物もしない、
敷地から一歩も外に出ず、ひたすらその空間とそこに流れる時間に身を置く。
がしがし泳いで昼寝して読書して、
あとはSPAと美味しいお酒と料理、そしてwifiがあればよい。
だから過ごし方もワンパターン化してきており、
過去のブログを読み返してみたら、
その傾向があまりにも顕著なので笑ってしまった。
ビーチバーやプールサイドで飲むドリンクも、いつも同じ。
5日間で読みきれないとわかっていながら、
必ず5冊以上持ち込む習慣も変わらない。
どれから読もうかと迷う時間と、
自然の風を浴びながら、終日太陽の光の下で本を読める時間は、
たまらなく贅沢で至福の時である。
到着翌日と最終日にSPAで施術してもらう習慣も根づいてきた。
前者は、よく頑張った、お疲れさま、
後者は、来週からまた頑張れ、みたいな。
自分を限界まで追い詰め、追い込むように働いて、
パラダイスで思いっきり脱力したのち、再び前線に出る、
そういう生き方が好きなのか、そういう生き方しかできないのか、
最近ではどっちでも良くなってきたし、
この先もたぶん変える気がないんだろうなと思う。
ココナッツアイランドと呼ばれる島だけあって、
敷地内もココナッツの樹が群生しており、たわわに実が生っていた。
毎朝ココナッツミルクを飲み、
ココナッツオイルでマッサージとヘッドスパをしてもらって、
施術後は冷えたココナッツジュースを飲み、
ココナッツオイル石鹸で顔や身体を洗う。
滞在中、いつも私は甘い香りに包まれ、髪や肌は艶々していた。
料理だけでなく、ホテルメイドの焼き菓子やパンのクオリティが高くて、
ココナッツサブレがあまりにも美味しいから持ち帰りたい、
売ってくれないか?
マネージャーに交渉してみたら、すぐにシェフとも相談し快諾してくれた。
丁寧にラッピングされた3個入りサブレを20パック、
チェックアウトに合わせて焼いて、持たせてくれたのがうれしい。
オフィスへのお土産はいわゆる空港免税店のチョコレートだが、
女性陣にはこれにココナッツサブレが付くのである♪
もう、とことんココナッツ尽くしなバケーションだった。
今年も残すところ、あと4ヶ月ちょっと。これから繁忙期を迎える。
ココナッツ効果で乗り切ろう、
そう思っていた矢先、思わぬ試練が降りかかってきた。
何も変えない、何も変わらないままでいることは、
そう簡単なことではないのかもしれない。
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晩婚
http://anzudiary.exblog.jp/26042811/
2016-07-24T10:30:00+09:00
2016-07-30T00:15:50+09:00
2016-07-24T03:31:09+09:00
apricot0113
今
早生まれの自分だって、あと半年そこそこで五十歳。
さすがに五十代ともなると、
三十代から四十代になったときとは違う感傷があるよねえ、
なんて話をしていたところへ、
最初に勤めた会社の同期から、
結婚しました、姓と住所が変わりました、
という連絡をもらった。
彼女とは入社したときからウマが合い、
一緒に旅行したり、合コンにも行ったりする仲だった。
同性から見ても色っぽい魅力的な女性で、その彼女がついにゴールイン。
この歳になると、こういうおめでたいお知らせはめっきり減るから、
喜びと驚きとが交錯し、何度も文章を読み返す。
早速、彼女のお祝いを兼ねて当時親しかった仲間で集まることにした。
出会った頃は二十二、三だった私たちも、年とキャリアを重ねていいオトナ。
ちょっといいフレンチの店で、昼間からシャンパンにワインのボトルを開ける。
久々の再会ということもあって、近況報告に彼女の電撃結婚報告が重なり、
女4人のトークが豪快に炸裂した。
まもなく還暦を迎える旦那様と五十歳の誕生日を迎えたばかりの彼女の結婚。
私たちの関心は当然そこに集中する。ずけずけ聞けるところも年の功、
出会いは、
彼は何をしている人か、初婚か、子どもは、
結婚の決め手は、プロポーズは、
自分の親の反応は、
相手の親は健在か、etc.
笑顔でさらっとユーモアも交えて話す彼女がカッコいい。
姓が変わりました、という報告だけだと、
みんな一瞬どう反応していいか戸惑うみたいなのよねー、
うーん、どっちだ…? みたいな(笑)。
五、六十年別々に生きてきて自分の世界や生活が確立している者同士、
恋人や同棲のままでもマッタク問題なさそうだし、
むしろその方が楽なんじゃないかと思ったりもするけれど、
2年間の同棲を経て結婚を決意したというのが、また素敵だなと思う。
紙切れ一枚でも、結婚することはお互いの人生に関わるということ。
責任も伴う。
敢えてけじめをつけて夫婦になる選択をした二人にとって、
結婚はゴールインじゃなくてスタートなんだなあと思った。
晩婚ゆえに叶えられないこともあるだろうし、
現実的な問題も待ち受けているだろう。
これまで歩んできた人生より、
この先共に過ごす人生の方が短くなるかもしれない。
それでも酸いも甘いも嚙み分けられる歳になって、
このタイミングで人生の伴侶とめぐり会えたことが、
本当に本当に素晴らしいし、うらやましい。
二人がこれまでの人生で培ってきた経験やそこから得たものは、
今後の二人の人生にもきっといい形で影響をもたらすのだろう。
結婚イコール人生のゴール、そこで人生が決まる、
二十代のうちにお嫁にいかないといきおくれる、恥ずかしい、
その固定観念と強迫観念に縛られていた二十代の自分を思い出し、
久しぶりに胸が疼いた。
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願掛け
http://anzudiary.exblog.jp/25881649/
2016-06-06T01:16:00+09:00
2016-07-24T05:22:44+09:00
2016-06-06T01:06:45+09:00
apricot0113
これから
今度、旨い寿司をごちそうするから帰ってこいよ。」
「ずいぶん、じゃないよ、先週一緒に軽井沢行ったばかりじゃない。」
電話口に出た父にそう言い返した後、
父にとって娘に会わない時間は長いんだ、
"ずいぶん長く"の期間がだんだん短くなってきているんだということに気づき、
自分の発した言葉を後悔した。
その1ヶ月後、腸に問題が見つかり入院した父は、現在点滴のみで禁食中。
寿司どころじゃない。水も制限された。
お医者様の判断により手術は見送ることになったため、
今度はちょっと長引くかもなあ…。
手術を受けてさっさと治るつもりでいた父は、一時期弱音も吐いていたが、
それでも退院後の生活に備えて、歩行練習に取り組んでいる。
アタマとクチはしっかりしていて、
都知事の公私混同っぷり批判、
増税再延期という"新しい判断"について、
オバマ大統領の広島訪問と演説に対する思い、
笑点の新しい司会者のこと、
主治医の先生(私の中学の同級生で当時イケメン男子!)のこと、
お気に入りの看護師さんのこと、等々、
病室の父は家にいる時よりむしろよく喋り、
日頃は持たせるだけで嫌がるケイタイをベッドの柵に括りつけて、
毎日母に電話してくる。
7年前にプレゼントしてここ数年は埃をかぶっていたiPodも久々に復活、
大好きなクラシックを聴いているらしい。
旅行に会食、ゴルフに音楽会と、普段の両親は私よりリア充で忙しい。
5月、6月も予定が立て込んでいたのだが、
退院の見込みが立たないため、友人ご夫婦との約束は全部キャンセルした。
音楽会だけは連れが母だし、ぎりぎりまで父の様子を見て決めよう、
それを目標にリハビリ頑張ってもらおうとしてきたのだけれど、
結局、先週のベートーヴェン、ブルックナーに続き、
今週も私がピンチヒッターでモーツァルト、バッハを聴きに行くことになった。
いずれまた父が来られるようになったときのために、
場内の車椅子席とタクシー乗降場を確認してこよう。
お見舞いの帰り際、父はいつも自分から右手を差し出す。
そして私たちの手を握り、ありがとうと言ってくれる。
その瞬間がうれしくもあり切なくもあり、
また来るね、
快気祝いは、約束通りパパにお寿司ごちそうになるからね、
こういうときにかける適切なオトナらしい言葉が見つからなくて、
そんな甘ったれたことしか言えない。
今や寿司でも焼鳥でも串揚げでもラーメンでも、
カウンターのある店ならどこでもふらっと入って、
一人飲みできるようになった私だが、
無意識のうちに好きなモノを断って願掛けしているのか、
もうずっとお寿司屋さんには行っていない。行けないのだ。
解禁日は父次第。いつになるのかなあ…。
父とのデート1
父とのデート2
父とのデート3
父とのデート4
親心
父とのデート5
喜寿
脳梗塞
金婚式
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